オーストラリア移住を、他の国々とも比較して、メリット&デメリットを検証。

オーストラリアの歴史

オーストラリアという国名はラテン語のテラ・アウストラリス(南方の大陸の意)に由来する。
古代ギリシャの時代から南方に北半球に相対する大陸があるはずだという伝説があった。

 

原住民のアボリジニは4万年以上前からオーストラリアに住んでいたが、
16世紀以降は、ヨーロッパ列強諸国による移民国家としての歴史を辿る事となる。

 

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1788以前(先住民の時代)

原住民のアボリジニの先祖は約5万年前の氷河期の時代に南インド方面からニューギニアを
経由して移動して来たと推定されている。

 

その当時は、ユーラシア大陸と飛び石の様な島々を伝わって移動する事が
比較的容易であったが、氷河期の終わりと共にオーストラリアは外部と隔絶した環境となった為に、
農業が伝わらず、アボリジニは狩猟と採集による生活を数万年に渡り続けて来た。

 

しかし、白人が到達する以前に、インド、ニューギニア、ポリネシア、インドネシア、
中国などから来訪した人々との交易や混血等もあり、全くの孤立した環境ではなかった。

 

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1520年頃になると、ポルトガル人がヨーロッパ人としては、初めての来訪者となるが、
求めていた様な交易物を発見出来ずに、注目を浴びる事もなかった。

 

1600年代に、オランダによる調査が始まり、オーストラリアを「新オランダ」と名付け、
タスマニアを「ヴァン・ディーメンズランド」と名づけたが、香辛料等の目当ての産物がなかった為に
オランダでも大きな注目を集める事もなかった。

 

1788〜1850(流刑時代)

1770年、有名なイギリスの探検家ジェームズ・クック大尉の艦隊がボタニー湾(シドニー近辺)
に上陸し、東海岸を調査した。

 

クックは、大陸の東海岸一帯を国王ジョージ3世の名において領有すると宣言し、
この地を「ニュー・サウス・ウェールズ」と命名した。

 

1776年に米国が独立した事により英国は流刑地を失い、ニューサウスウェールズがその
代わりの地と定められた。

 

1788年1月26日、初代総督アーサー・フィリップ率いる英船団が、流刑囚778名、
海兵隊とその家族約700名を連れて、ポート・ジャクソンに現れ、本格的な入植が始まった。
(これが「オーストラリア・デイ」という記念日となっている)

 

またオーストラリアの植民地経営が進んで行く間に、原住民のアボリジニたちは、奴隷にされたり、
イギリス人たちが持ち込んだ天然痘の流行や、イギリス軍との戦闘、過酷な労働等によって
人口が激減、タスマニア島にいたっては、わずか100年の間に、
純血のタスマニア人は絶滅してしまった。

 

1793年、炭坑の発見や羊毛生産などで開拓を広げ、自由移民が始まった。
1829年、イギリスによる正式な領有宣言が出された。

 

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1851〜1900(自治植民地時代)

1851年、ニューサウスウェールズ州のバサーストでの砂金発見をきっかけに、
ビクトリア州のバララット等を中心としたゴールドラッシュが起こり、欧州や米国や中国等から
大量の移民入植者がオーストラリアに殺到した。

 

ビクトリア州で大きな金脈が発見された事により、ニューサウスウェールズや
西オーストラリアのアデレード等からもビクトリア州に大勢の人々が移動していく。

 

ゴールドラッシュにより大量に流れ込んできた、低賃金で働く中国人移民に脅威を覚えた
白人達により、アジア系移住者を排除する「白豪主義」が推進されいく事となる。

 

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1901〜1945(連邦時代)

人口の増加や産業基盤の発展により、1901年にオーストラリア大陸とタスマニア島は、
「オーストラリア連邦」として、イギリスの自治領となり、流刑制は廃止された。
6つの連邦州、キャピタルテリトリー、ノーザンテリトリーから構成される。

 

この年が実質的な国家としての独立の年と言える。
形態としては現在でもエリザベス女王を君主とする立憲君主制を取っているが、
オーストラリアにとっては、同一人物が英国女王ではなくオーストラリア女王と位置づけられている。

 

1914年に第一次世界大戦が起こるとイギリスの自治領であったオーストラリアは
連合国側として参戦し、太平洋地域のドイツ領を占領し、40万人近くの義勇兵が
ニュージランド軍と混成したANZAC軍として、欧州戦線に参加した。

 

当時500万人程度の人口であったオーストラリアの1割ちかくの兵士が参加し、
さらにその内の1割程度を戦死者として出す事になり、大きな損害となったが、
当時の法律では海外への派兵は禁止されており、あくまでも義勇兵という立場で
あった事から、徴兵制の可否を決める投票が行われたが僅差で否決された。

 

第一次世界大戦終戦後のパリ講和会議で、国際連盟への加入が認められた。

 

1941年第二次世界大戦勃発。オーストラリアは、アメリカ、イギリスを中心とする連合軍として参戦。
1942年2月には、北部ダーウィンを中心とする一帯を日本軍に攻撃され、町は壊滅状態となる。
シドニー湾にも特殊潜航艇が侵入し、シドニー市街地が砲撃の被害を受けている。
1942年3月にフィリピンから脱出したダグラス・マッカーサーがオーストラリアに上陸し、
西南太平洋連合軍最高司令官としてその後の戦争を指揮した。
1942年はオーストラリアの対外政策の主軸がイギリスからアメリカとなる分岐点となった。

 

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1946〜(第二次世界大戦後)

この頃より、インドネシアの独立運動など、近隣のアジア諸国が次々に独立し、
経済的にも発展を遂げた事により、アジアへの注目が高まり、
白豪主義による国家運営の限界を感じるようになってゆき、
1980年代には、白人中心の白豪主義を廃止する事となる。

 

第二次世界大戦が終結すると、オーストラリアは好景気となってゆく。
従来からの小麦や羊毛などの第一次産業の好調に加え、
鉄鉱石などの天然資源、製造業でも業績を上げていった。

 

1950年代には社会保障の拡充と通信の発達も目覚しく、この時期にテレビも登場した。

 

1956年、南半球で初めてのオリンピックがメルボルンで開催され、
国際的な知名度も向上した。

 

1960年に入ると、ボーキサイトやウランなどの天然鉱物資源の需要の高まりと共に
経済が発展し、国民生活水準も向上した。
大規模なダム工事の為等で東ヨーロッパや中東からの移民が増加、
現在では、多民族によるユニークな文化を形成する国家となっている。

 

イギリスを始めとする欧州との取引が減少する中、日本やアメリカとの貿易を進展させた。

 

又、戦後の冷戦構造の中で、オーストラリアは英国より米国との結びつきが強くなり、
米国が参加したほぼ全ての戦争に参加している。

 

1950年 朝鮮戦争に参戦。
1951年 太平洋安全保証条約(ANZUS)に加盟。
1955年 東南アジア条約機構(SEATO)に加盟。
1967年にアボリジニの公民権が認められ、その後1976年にはアボリジニー土地法案が成立した。
1980年代からは白豪主義を撤廃し、世界中から移民を受け入れる「他民族国家制」
へと移行した。
ベトナム戦争にも積極的に参加し、その後はベトナム難民を数多く受け入れた。
2003年のイラク戦争にも参加している。

 

1990年代から立憲君主制の是非を巡る論議が盛んになった。
1995年6月発表の政府案では、2001年までの共和制移行を目指す方針が示されたが、
ハワード政権下で行われた国民投票で、共和制導入案は否決された。

 

2000年には、オーストラリアで二度目のオリンピックとなるシドニーオリンピックが開催された。

 

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